生徒の進路相談に乗っていて、自分はどうなんだと考えてしまった(2023.9.10投稿)
Mari Kawachiさんは中堅校→困難校の高校教員として5年勤めた後、ファッションや美容関係の仕事に転職した方です。高校で進路相談をしていたら、そもそも自分が教員を続けたいのか疑問をもつようになってしまったことが転職のきっかけだそうです。
高校生という若者に接していながら、民間に転じたときに、仕事上必要な若者トレンドのに疎くて大変だったという話から、学校教育現場や教師という立場の特殊性を知ることができ、大変参考になります。
2020年3月31日、わたしは5年間続けた公立高校の教師を辞める。 新規採用から5年間で中堅校と困難校の2校を経験し、そのうち3年間は持ち上がりで学級担任を担当させてもらうことができた。 近年「ブラックだ」とか「やりがい搾取だ」とか、教員間のいじめだとか、ネガティブなことばかりが叫ばれている教育界だけれど、わたしは決してネガティブな理由で辞めるわけではないことを記しておきたい。 高校教師は、楽しい。 確かに、授業の他に行事も部活動も保護者対応もその他細々とした雑務も多いかもしれない。土曜日も授業があり、日曜日は部活。そんな感じで月に2日しか休みがない月もザラだった。けれど、素
音楽で食べていく道は、教員以外にもいろいろあることが分かった(2023.9.10投稿)
ぴあでんさんは、音楽を仕事にしたいということで、音楽専科の先生を目指して教員採用試験を受け小学校に配属されるも、音楽専科の先生がいたので普通に担任として音楽以外の科目を受け持つことに。その後、中学校に転任し音楽の授業を担当する機会を得ますが、育休を取ったことなどが転機になり、いったんフルタイムに戻った後、退職し音楽を活かしたフリーランスの道に進まれています。
教員を辞め、フリーランスとして働くぴあでんです。 今回は、なぜ教員を辞める決断をしたか、その転機について綴ります。 そもそも教員になった理由 私は音楽大好き人間でした。高校時代から、音楽関係の仕事ができないかと考えていました。しかし、当時は「自分で仕事をつくる」という発想はなく「就職」という選択肢しか考えていませんでした。 自分なりに調べてみると、一番収入が安定していて生活できそうなのが学校教員でした。安定志向だった私は、迷わずその道を選択。教育学部の音楽科を出て、教員になりました。 現実は専門外の仕事だらけ 私は小学校の音楽の先生になることが夢でした。小学校に赴任できたものの
教育系公務員出身者のリボルビングドア(人材流動化)のロールモデル(2023.9.3投稿)
ご紹介するのは竹本雅美さん。とにかく、noteを見ていただきたいです。大学卒業後、高校教員として勤務した後、県の教育庁に引き抜かれ(行政っぽい調整業務ができると見込まれた教員ならよくある話)、インターハイ関係の業務に4年間従事、それから現場に戻らず文科省・スポーツ庁に派遣され3年勤務。その後戻った県教育庁でカルチャーギャップを生じ、半年で退職に至ります。
とにかくスポーツのお仕事が好きな方なのでしょうね。スポーツを通じたまちづくりの仕事ができる民間企業を見つけ出し、転職。4年半後、その担当から外れることになったのを機に、退職。
その後は、資格取得のための勉強期間、学童保育の仕事を経て、2023年度からは県立の特別支援学校で勤められています。
気づいたら22記事目。 皆さんのnoteを見ていると自己紹介記事をプロフィールに固定しているので、私も遅ればせながら書くことに。 1 小・中・高校時代 早生まれの私は、4月生まれの同級生とはほぼ1年違い。 何をやっても同級生には追いつかず、運動会も4年生ぐらいまで1番になったことはなかったかと。 小さい頃の記憶はほとんどない(^^; 残っている記憶は、1年生か2年生の時に母親から掛け算のようなことを教えてもらっていたので、それを授業中、つぶやいたら、みんなの前で先生に褒められたぐらい。 運動は全くみんなに追いつけなかった私。おそらくこのできごとをきっかけに勉強好きになった 笑
教員を辞め、民間で働き、立場を変えてまた戻る(2023.8.27投稿)
4大卒後、小学校の臨時教員と正規教員を経て、結婚や妻の出産など、生活上の大きな変化と、上司との関係がきっかけとなり30歳で教職を離れたタビセンさん。学童指導員とWebライターを経て広告会社勤務に至りますが、家族の事情で再び臨時教員(常勤講師のことかな?)に戻られたとのこと。
教育に強い思いを持っておられ、noteでは教育論を多く投稿されていますが、通底するのは、教員には時間的・精神的余裕が必要だ、ということだと思われます。
一度正採用教員を自己都合退職したことがあります。妻が田舎生活に限界を感じていたことと、上司の顔を見たくなくなったことが大きな理由。 退職する旨を伝えたのが秋頃。色々と慰留はされました。顔も見たくなかった上司に加え、自治体の教育長も訪れて慰留してくれましたが、その時すでに意思は固まっていました。 意思が固まっていた、というより、その時すでに自分は正常な判断ができる状態ではなかったのかもしれません。今思えば退職せずとも他に色々と取れそうな手段はありますから。 さて本題。なぜ自分はこうも教員の仕事に追い詰められてしまったのか。あれから5年6年ぐらいが経ち、今は過去の自分のことを次のよう
若い頃、担任道を夢中で突っ走ってた。 武器は身につけた知識と若さ特有の有能感。 失敗を受け入れ、成功を喜び、ひたすら全力で突っ走った。 世界が輝いていた。 ある日、走っていたはずの道を踏み外しかけた。 何をやってもうまくいかない。 一度立ち止まり、冷静になって道をもう一度見てみると、 その道の正体は綱だった。 初めて気づいた。教員仕事とは綱渡りであり、自分はその綱の細さが見えないまま全力で走っていただけだった。 踏み外すのも当然だった。 考え方が変わった。 綱渡りである教員生活を、一歩一歩冷静に歩くようになった。 チャレンジ精神がなくなったように見え
教員生活にも恵まれていたが、後悔しない人生を送るために(2023.8.27投稿)
中学校→小学校→日本人学校→小学校と、学校種を変えながら教員生活を15年続けてきた内田琢也さん。教員としては恵まれた環境にいたとのことですが、一教員としてできることの限界、忙しすぎて理想からかけ離れてしまう現実などに向き合い、このままいくと、ズルズルとタイミングを失い、挑戦できず5年後、10年後に後悔すると思い、辞める決心をしたそうです。現在は、イベント運営学校の主宰などをされています(マルチな活動・肩書をお持ちで、ひとくくりに紹介するのが難しいです)。
生きていく上で大切にしていきたい価値観を掘り下げる。 ここでいう大切にしていきたい価値観とは 『あり方(Being)』である。 私の場合、過去の体験、出会ってきた方々の体験をもとに、大切にしたい価値観をたくさん出した後、大きく5つに分類すると 「感謝できる人でありたい」 「楽しむ人でありたい」 「チャレンジできる人でありたい」 「自分らしさを表現する人でありたい」 「ゆとりを持つ温和な人でありたい」 そんな『あり方』を望んでいる自分がいた。自分の人生の目的にあたるものである。上の望んでいる「あり方」は自分の「内側」にベクトルを向けたもの。 では、自分の「外側」にベクトルを向けたも
授業以外の仕事(校務分掌)が忙しく、身が持たない(2023.8.19投稿)
激務の小学校教員として5年勤め、出産・育休を経て、我が子との時間を大切にするために退職を選択したchoco先生。退職後は、時間にゆとりのある非常勤講師に転身しつつ、副業にチャレンジするそうです。教員の仕事がなぜブラックと言われるのかなど、やりはじめると、やるべきことは決してなくならない教員の仕事の裏側がたくさん紹介されています。
私が非常勤講師×副業をするまでの軌跡をまとめています。 どうして始めようと思ったのか。 どんな準備をしたのか。 など載っています📝
教員生活22年、最後の数年は辞める辞めないで揺れ動く。最後は50代で起業を決断(2023.8.19投稿)
畠山忠さんは、民間企業を経て、小学校教員へ転職。長らく、やりがいや充実感を感じてきたはずなのですが、年齢による体力低下や、変わりゆく時代・保護者の影響で、教職のモチベーションを少しずつ削られていき、仕事を続けるべきかどうか悩む生活に入ります。最終的には起業を決断されました。
こんにちは。 50代でのキャリアチェンジについての お話です。 ↓ 気になったらクリック ↓ 私は以前、小学校教諭として 22年勤務していました。 その中で、 子どもは好きだし、やりがいもある・・・ ・・・だけど なんか自分の中で モヤモヤしている このまま定年を迎えていいのだろうか? 迎えられるだろうか? そんな感覚がありました。 それが、年が経つにつれて 無くなるどころか どんどん大きくなっていったんですね。 全力を出して 子供と向き合えていない 自分に不満を持ったり それでも やる気が出ない自分に 落胆したり・・・。 体力的にも 以前のように動けない
詳しくは、ご本人の著書によくまとまっています。
noteリンクにも掲載予定の畠山忠さんが書かれた本。民間企業から小学校教員に転職し22年勤め、学校でも中心的な立場になっていたものの、激務など様々、思うところもあったのでしょう、退職→起業を選択。とはいえ決断は容易ではな …
教職公務員の安定を失っても別に怖くない境地に至れば、ある意味無敵(2023.8.6投稿)
特別支援学校の教員を務めていた、さちこバナナさんは、育休取得中にいろいろ思いを深め、人脈も広げた結果、メタバース空間でのオンライン学校(ニンジャ寺子屋)の校長先生になるために公立学校を退職しました。転職を決めたのには、どこでも稼げる状態を作りたい、自由で余裕のある働き方をしたいなどの理由があったようです。
転職の経緯よりも、エッセイ的な内容が主に書かれているnoteの記事数はかなり多く、転職に関係するものを探すのが大変なので、キュレーションの一環として、複数の主要記事をリンクしておきます(新しいものから並べていますが、古いものから見ていくと、心境の変化を知ることができて参考になります。)。
メタバースの学校、ニンジャ寺子屋をつくっています。 ”みんなでつくる、みんなの学校”であり、 授業から行事まで大人も子どもも関係なくつくっています。 学びたいことを学ぼう 教えたいことを教えよう 好きは学びの出発点です。子どもたちの”やってみたい”を 応援したい学校です。 フリーランス、さまざまな定義はありそうですが、 カタカナで、よくわからないが「かっこいいよね」 という人がいます。 今年の4月で公務員を辞めて、 フリーランスになりました。 今は個人で、賃金労働をすることもありますが、 自分でサービスをつくることもあります。 noteの目的は”さちこバナナ”を知る入口です。
メタバースの学校、ニンジャ寺子屋をつくっています。 ”みんなでつくる、みんなの学校”であり、 授業から行事まで大人も子どもも関係なくつくっています。 学びたいことを学ぼう 教えたいことを教えよう 好きは学びの出発点です。子どもたちの”やってみたい”を 応援したい学校です。 周りからの心配 さちこが教員を辞めたぞ!は、元同僚からは、 どうした?なぜ?なんか、あったん? との、心配の声を頂きました。 みんな多少嫌なことはある。 辞めたらどうかな〜って思うことは1度はある。 でも、みんな辞めなかったのは、 お金の心配からがきっと大きいと思うんです。 辞めたら、今の生活を維持で
育休に入った当初は、ずっと仕事をやめよう!と考えていました。 理由は、シンプルに ①消耗が激しい ②なにかに挑戦したい、このまま普通に教員人生で終わるのはつまらないの ③子どもにやりたいことをやり続ける姿を見せたい やめると決めたから、ジャージやら指導要領とか断捨離しちゃいました!! でも、やっぱりやめません。 私、先生という仕事が好きだった。単純にそこでした。 育休はサバティカルタイム 流行りのカタカナ使ってみた(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎ そんな言葉なんてどうでもいいんです。 (ただ、使いたかったの❤️かっこいいじゃん) やめると決めてはいても育休な
①どこにいても稼げる状態をつくりたい 私にはさ、ずっと抱いてる夢があってさ。ずーっと、思っていることだから、これは私の中で絶対なんだよね。10年前から言っているから、 「もう、いい加減叶えなよ」って言われた。ごもっとも! それはね、自然が豊かな場所で暮らしたいってこと。自然に近いところで、自分もその自然に溶け込むように生き方をしたい。自然にやさしいとかじゃない。 自然とともに生きるみたいな生き方をしたいんだ。晴耕雨読って言葉が好き。晴れたら外に出て、雨降ったらまぁいいかって本でも読むかぁって。 じゃあ、田舎行けよって話なんだけど、家族のことを考えるとまだタイミングではない。
子どもと向き合える仕事を求めて(2023.7.29投稿)
もともと、大学で心理学を専攻し、児童養護施設に入ったsumiさん。その後、家庭事情で退職、子どものそばにいられる仕事として小学校教員に転職したものの、そこは自分が理想とする人になれる場所ではなかったようです。また、教員不足で忙しい職場でキリキリ働くよりも、もっと豊かな環境を子どもたちに提供することに力を注ぎたいという思いも募り、教員を退職。現在はフリースクール関係のお仕事をされています。
子どもが成長していくとき その場所をあたためておくこと。 苦しいときも 喜びのときも ただそばにいて そのあたたかい場所であるということ。 そんなことが私はしたかったんだ。 昔 『シーラという子』という本を読んだ。 そこにはシーラと、精神科医の女の先生トリイとの出来事が書いてある。 シーラは被虐他児。 彼女の支援にいろいろと苦労する。 私の心に刻まれていたのは、トリイが特別なことをしていないこと。 ただそばにいた。 シーラが、最後に噴水のそばでキラキラと舞っている姿が 私のイメージの中に刻まれている。 特別なことをしなくても ただそばにいることで人
外国と日本の教育現場の違いに引っかかりを覚えていた(2023.7.16投稿)
夢だった小学校教員を4年勤めたmahoさんは、大学在学中、アメリカの小学校でティーチングアシスタントのボランティアをしたときの経験と、日本の教育現場とのギャップが引っ掛かり続け、「日本と海外の教育の違いをそれぞれ現地で学び、日本の教育をより良いものへと変える」という第2の夢のため、退職を選択しました。
ただし、日本人学校とJICA(おそらく青年海外協力隊のことと思われる)に転じる道は選択肢から外れ、オーストラリアへの保育留学を決意されました。日本と外国の小学生の行動様式の違いを探るためには、就学前の保育の状況を知る必要があるという考えから、この進路を選んだそうです。
メンタルで退職したという記載はありませんが、辞めたあと健康になったとは書いてあり、やはり教員が激務であることがわかります。
夢を叶えた小学校教員だった私は、新たな”夢”を見つけた。 そして、その夢を叶えるために、 小学校教諭(公務員)を2023年3月31日をもって、退職することにした。 小学校の先生を経験して思ったこと 私は、この仕事を夢としてきたので、小学校の先生を経験できたこと、 そして4・5・6年生と持ち上がりで卒業まで関われたこと、 4年間学校で過ごしてきた日々はこれから先もずっと忘れることはない。 しかし、決して楽しい思い出だけではなかった。辛いことも悔しいこともたくさん経験してきた。子どもとぶつかり合い、教室に行きたくないとさえ思ったこともある。 でも、自分の休みの日を削って、良い